謄写版(ガリ版)について

謄写版(とうしゃばん)とは

謄写版(とうしゃばん)は、1894年(明治27年)、滋賀県東近江市蒲生岡本町出身の堀井新治郎父子がトーマス・エジソンのミメオグラフをヒントに発明、発売した簡単便利な印刷器のことです。和紙にパラフィン等を塗ったロウ原紙と呼ばれる原紙をやすりの上にのせ、「鉄筆」という先端が鉄でできたペンで文字や絵をかきます(この作業を「原紙を切る」と言います)。この部分は紙のロウがけずれ落ちて細かい孔がたくさん開き、「透かし」となります。

木枠に原紙を張り、原紙の上にインクを塗り、下に紙をおいて、上からローラーで押さえると、「透かし」部分の文字や絵の部分だけインクが通過し、印刷されるしくみです。正式には謄写版ですが原紙を切る作業中に生じる音から「ガリ版」という愛称で呼ばれていました。非常に簡易な印刷装置で、小型のものは手で持ち運ぶこともでき、原紙とインクさえあれば、電気などがなくても印刷が可能であるのが特徴です。

謄写版(ガリ版)小史

 謄写版は、日清戦争開戦の年(1894年)に最新の国産事務用印刷器として世に出た。その背景には、日本の近代化の一端を担うという意気込みが見え隠れする。発明者は滋賀県の堀井新治郎父子であり、東京都神田区鍛冶町大通三番地に謄写堂を開業している。そして、謄写版の初の大舞台は、大陸の戦場であった。陸軍御用の軍事通信用に採用されたからである。日清戦争勝利のわずか数年後には、清国の上海、香港に同社は特約店をおいた。海外の漢字圏の国々への謄写版の移転である。早くから堀井父子は国際派であった。 
 国内では、戦後の1960年代までが謄写版の最盛期であった。全国の役所などの公的機関の事務用印刷機の主役として、また教育現場、政治、社会運動、文芸、芸術活動の分野、硬軟に及ぶアンダーグランドでの活躍も世に知られる。政治的非合法出版物がポルノグラフィーの類である。情報伝達、表現の道具として「謄写版」のなした仕事は、ガリ版文化と呼んでいい内容、広さと深さをもつように思われる。
 謄写版の発展史について少々ふれておく。そのルーツは、欧米の簡易印刷の発展史に連なるものである。特に堀井新治郎が“師”と仰いだのが、アメリカの(あるいは世界の)大発明家トーマス・アルバ・エジソン発明の簡易印刷機“エジソンズミメオグラフ”であった。もともと、わが国伝統の染物(捺染法)などをヒントに製品化に取り組んでいた堀井父子の研究は、性能のみならず外見も西欧風というエジソン型として完成した。エジソンを100%も模倣したとする考え方も根強く存在しつづけたが、私はそれには与しない。堀井の努力は、確かに十分とはいえなかったかもしれないが、最初から日本文―漢字かなまじり文印刷を可能にする様々な工夫に彩られていたのである。
 当初は、原紙(強靭で極薄のガンピ紙の採用)、ヤスリ(研磨用工業ヤスリの転用)が知られているが、原紙ロウ引き機なども堀井の発明とされる。確かに大正初期までを原始時代と呼ぶ謄写技術者もいるが、大正末から戦前昭和期には、基本的技術が確立している。ガリ版の愛称を産んだ大正デモクラシー期に、民間のユーザー層を急増させたことが引き金となり、戦前昭和の時代には、謄写器材、技術が発展する。日本の謄写印刷発展史は、きわめて特殊である。堀井父子が、日本の近代化を担う目的で開発した簡易印刷機は、やがて美しい多色刷りを生み出し、戦後(1950年代)には技術・器材発展は最高レベルに達し、なお器材の改良、細やかにして強靭な工夫の歴史は斜陽期に至るまで継続する。
 「ガリ版の魅力は、その仕事にたちまち自らの魂が乗り移ることだ。これは活字やその他の版式の遠く及ばないガリ版の独壇場である」(若山八十氏・孔版画家)。手作り印刷器、謄写版の讃歌にしてその特殊性が見てとれるよう。
〈志村章子著『ガリ版ものがたり』(大修館書店 2012年)序文より抜粋、一部加筆〉

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